戦国武将の中でも人気が高い織田信長。その生まれた場所、つまり誕生地ですが、那古野城(名古屋市中区)、勝幡城(愛西市、稲沢市)の2つの説がありました。結論からいうと、現在では勝幡城が信長の生誕地というのが有力説です。ではなぜ那古野城が生誕地ではないのか?その理由を説明します。
那古野は今川氏の城だった
勝幡城は織田信長の父・織田信秀が拠点にしていた城。那古野城は今川氏豊(うじとよ:義元の弟)が城主だった城です。信秀は氏豊の那古野城を奪うため、氏豊と親しくしておき、奇計で那古野城を奪い、氏豊を追放しました。
年代がポイント
ここでポイントとなるのが、織田信秀がいつ那古野城をうばったのか?まず織田信長が生れた年は天文三年(1534)五月。これは事実と考えられています。
そこで那古野城奪取ですが、今までの説では天文元年(1532)と考えられており、奪った那古野城で信長が生まれ、後に城を譲って信長が那古野城主となったというのが流れ。
しかし最新の研究では那古野城奪取は天文七年(1538)といわれており、そうなると信長が生まれた後に那古野城を奪ったことになるので、それまでの拠点だった勝幡城が信長の生誕地になります。
どんな研究?
この那古野城奪取についての根拠はいくつかありますが、主なものは以下の通り。
>>愛西市教育委員会に努めていた石田泰弘氏の論文発表 日本経済新聞
>>中京大の播磨良紀教授の古文書講座 | 中日新聞朝刊尾張総合版
現地(勝幡城)
信長の生誕地と考えられている勝幡城は現在の愛知県愛西市、稲沢市にまたがる城跡。周辺は住宅地になっており、河川の流れも変わったことから、城の遺構は残っていません。現地には石碑が二ヶ所あり、近くの支所には勝幡城の礎石と考えられる石が展示してあります。
(現地)那古野城

かつては織田信長の生誕地と考えられていた那古野城。現在の名古屋城二ノ丸にあった城です。のぼりや教育委員会の説明看板もありましたが、現在では撤去、修正されています。
那古野城の遺構は残っておらず、名古屋城二ノ丸に石碑があるのみです。でもこの石碑、近くでよく見てみると、別の時代の遺構があるのです。
『那古』しか文字がなく、その下は削られています。実はこれ、昭和二十年(1945)に名古屋城が空襲に遭った時、爆風で文字が削られてしまいました。つまり太平洋戦争の遺構なのです。かつては『那古野城址』とか、文字が刻まれていたのでしょう。