愛知県愛西市の名鉄・勝幡駅前に織田信長のファミリー像が建っています。まだ赤ちゃんの頃の織田信長(吉法師)。そして父である織田信秀、母の土田御前。なぜ勝幡駅前に織田ファミリー像があるのかというと、織田信長の生誕地・勝幡城の最寄り駅だからです。
さて、今回のポイントは織田信長の生母・土田御前の読みについて。『つちだ』?『どた』?この読みについては彼女の生誕地によって変わってきます。どういうことか?わかりやすく説明します。
2つあった土田御前の出身地
土田御前の生誕地といわれる場所は2つあります。ひとつは岐阜県可児市の土田(どた)。もうしとつは愛知県清須市の土田(つちだ)。出身地の地名によって、どたごぜん、つちだごぜんと、読みが変わるのです。
可児市土田
まずは美濃説。現在の可児市土田に織田信長の母・土田御前(どたごぜん)生誕地の石碑と銅像があります。現地看板は以下の通り。
土田御前の経歴
土田御前は、当地土田城主 土田政久の息女とされ、この地(現在の可児市土田)で生を受けました。縁あって尾張の織田信秀の正室となり、信長、信行(信勝)、秀孝、信包、市(お市の方)、犬(お犬の方)の生母として戦国の世の定めに従いました。
土田御前は「うつけ」と呼ばれていた信長よりも、その弟である信行を可愛がったといわれますが、信行の死後は信長と共に暮らした時期もあり、信長や市の子ども達(信忠、信雄、信孝、茶々、初、江)の面倒を見たといわれています。
信長は天下布武の過程で、家臣であった荒木村重の謀反の噂が立った際には、村重に「母(土田御前)を人質として差し出すので出仕せよ」と言い、噂の真相を確かめたのは有名です。
晩年は、孫の信雄、子の信包のもとで暮らし、文禄三年(1594)1月7日に安濃津(現在の三重県津市)で亡くなっています。逝去した年齢は不詳ですが、当時としては大変長寿であったようで、墓所は三重県津市栄町の四天王寺にあります。
2017年四月 記
現地に建立されえいる像。息子の吉法師(きっぽうし:後の織田信長)とセットです。
系図がスゴい
現地の土田御前、織田家の系図を見ると改めてスゴさがわかります。徳川将軍家、皇室にも血筋が枝分かれしているのがわかりやすいです。
なぜ岐阜県可児市土田が彼女の生誕地なのか?結論からいうと、この地の土豪・土田氏の娘ということで土田御前と呼ばれている、それが岐阜県可児市の主張です。
土田城址
土田城址は文明年間(1469~87)頃に土田氏によって築かれたと伝えられています。弘治二年(1556)、土田源太夫が明智城において討死した後は、丹羽郡小折城(愛知県江南市)の生駒氏に養子となっていた親重、親正が城主となり、親正は織田信長に仕え、天正二年(1574)には土田城を去ったとされています。後には豊臣秀吉に仕え各地を転戦し、天正十五年(1587)には讃岐丸亀城主となりました。(可児市史 通史編)
約10メートル四方の小規模な曲輪が南北それぞれ二面配されています。土田氏や生駒氏は、山麓の居館に居住し、合戦の際には土田城に立て籠もったと考えられます。また、織田信長の生母である土田御前生まれたともいわれています。
江戸時代の記録にみる土田城
尾張藩士の松平君山(秀雲)が宝暦六年(1756)にまとめた『濃陽志略』に生駒甚助(親正)が天正年間に居城したと記されている。
また、同じく尾張半紙の岡田啓が天保期以降にまとめた『新撰美濃志』には、生駒氏城址を天正期に生駒道寿(親重)、同甚助が住み、俗に「土田の城山」と呼ばれ、地元の人は「生駒三吉の城山」と言っていたと記されている。
可児市
清須市土田
清須市土田(つちだ)は清洲城最寄り駅である名鉄新清洲駅の西側の地区です。電車で清洲城に行く時、また帰り際に立ち寄ることができます。
こちらの地名の読みは土田(つちだ)。もしこちら出身なら『つちだごぜん』になります。
町内をかつての鎌倉街道が通っていました。交通の要所でもあったんですね。
清須市土田の辻。もしかすると街の中心部で高札場などがあったのかも?という妄想が楽しかったです。可児市と違いこちら側には銅像や信長の母についての看板も無かったです。
つまりどっち?私の感想
織田信長の生母・土田御前の生まれた場所、つまり生誕地についてですが、今のところどちらかよく分かっていません。
私の感想ですが、個人的には清須市の土田(つちだ)が織田信長の母の誕生地と思っています。その根拠ですが、当時の織田信秀(信長の父)は勝幡城(愛西市:稲沢市)を拠点にしてり、まだ織田家が尾張国を統一していませんでした。
その中で敵の斎藤道三の勢力圏内でもある美濃国の土豪と婚姻同盟を結んでも、あまり意味が無いと思います。また可児市の土田氏も美濃国が敵対する尾張の織田氏と同盟を結んでも、斎藤道三や周辺の美濃の土豪に攻められるので、メリットはあまりないかと。
一方、清洲の土田(つちだ)氏なら、勝幡城も近く、織田氏、土田氏どちらかが敵に攻められても助け合える距離です。だから織田信秀は清洲の土田氏(つちだし)と同盟を結び、その婚姻として信秀と土田御前(つちだごぜん)が結婚したのではないかと思います。